ていうか13世紀にイギリスはない

(もともと匿名ダイアリーに投稿しようと思っていたのを文字数の関係でこちらに変更しました。ベタ貼りしているのでレイアウトがよくないかもしれませんが、ご容赦ください) 

 

 この文章は、昨年秋に刊行された『ポーランドの歴史を知るための55章』(明石書店)の第2章及び第4章に対する批判として書かれたものです。
 『ポ歴知』はさまざまな分野の専門家がバラエティ豊かなテーマについて執筆したもので、学術入門書としても読み物としても非常に優れた本だと思います。そのなかにこうした、控えめに言って問題含みの文章が収録されていることに非常に驚きましたし、さすがにちょっとまずいのでは? と思いました。
 この2つの章は同一著者によるもので、その主張を簡単にまとめると「ポーランドソ連の制約下にあった社会主義期にも主権国家たらんと努力してきた。しかし現在のポーランドは、EUユダヤイスラエルという2つの外部勢力に主権を譲り渡してしまっており、主権国家として存立の危機に立たされている」というものです。こうした世界観を抱くこと自体を否定するのではありませんが、事実の誤認ないし拡大解釈に基づく無根拠な主張が多く見られることについては、公的な批判及び訂正が必要とされると考えます。私にそのための十分な(あるいは最低限の)能力があるとは思いませんが、それでもこうしたものがないよりはましと思い、ここに投稿することにしました。
 以下、文中で強い批判を行っていますが、著者の主張が定説であるかのように広まってしまったらよくないなと思ってのもので、著者個人を攻撃したり燃やしたりすることを目的とするものではありません(編者と編集者の方はもっとちゃんとチェックして……とは思いましたが)。また論の運び上EUへの評価が甘くなってしまっていますが、EUを弁護する意図もまったくありません。 
 あと、私はもともと文学に関心をもっていて、政治史や現代政治についてはあまり知識がありません。なのになんでこんな偉そうな文章書いてるんだろと自分でも思いましたが、むしろそんな人間に蛮勇をふるわせるくらいもとの文章がよくない!!! と開き直りたいです。本当は私も好きな東欧の作家とか世界史BLエピソード百選とか楽しいことについて書きたいよ。「ユダヤ主権者」みたいな言説への批判ではなく……

EUについて
 著者はEUについて以下のようなことを述べている。

「国家や民族の独自性、宗教、文化、伝統、家族のつながり、個人的な好みさえも弱めていき、境界のないヨーロッパ連邦を作ろうとするEUは、政治、経済、司法はもとより木の伐採、旗の図柄にいたるまで細かく関与してくる。現在、ポーランド政府の発する命令、指示、法令のおよそ80%がEUからの指令に基づいているとみられる」(pp. 27-28)
「これ[ソ連の干渉]に対してEUとの関係は、そもそもそれが主権侵害であると意識させないような、あたかもポーランドの主権者側が望んでいるかのような巧妙な手段を使うため、抵抗は困難である。ポーランドのメディアの9割までがEUを支持する外国資本に支配されているということも、考慮に入れねばならない」(p. 28)
EUとは、人種間の混交をすすめ、宗教的土台を崩壊させることによって民族国家を消滅させることを目的の一つとする組織であるから、EUの[安全保障上の]介入があるとすれば、介入はこの方向で行われることになるだろう。ポーランド防衛という名目で軍事介入があるとしても、守られるのは民族国家としての統一ポーランドではなく、いわゆる少数派の権利のほうであろう」(p. 35, 同著者による第3章より)

 過去の論文や訳業を見るかぎり、著者はEUについてかなりしっかりした知識をもっているはずで、そうした人がなぜこのような文章を書けるのかよくわからない。
 言うまでもないことだけど、EUがもつ権限は政策領域ごとに大きな差があって、著者が重要視する社会文化的価値観に直接関わる領域ではEUの権限はそれほど大きくありません。また現在のEUが「境界のない連邦」を目指しているかというとかなり怪しいし、加盟国への軍事介入を想定した枠組みも多分存在しない。「国内立法の80%がEUの指令由来」という記述もよくわからなくて(Dziennik Ustaw と EUR-Lex をちゃんと見ればわかるのか? 誰か教えてください……)、I.の文献や II.の記事で扱われてる他国の状況を見るかぎり(法体系とかデータの取り方とか全然違うので簡単な参考にしかならないけど)、
 ・指令の国内法化だけで80%にいくことはなさそう。
 ・規則その他のEU関連法を入れればそのくらいに達するかもしれない。
ただ後者の場合にもどこまでを「EU関連法」に含めるかとかの基準によって大幅に数字が変わるみたいなので(そしてその基準は往々にして政治的意図に左右される)、いずれにせよ注意して読まないといけない記述だと思う。
 「ポーランド・メディアの9割がEU支持の外国資本」というのも言説の型としては典型的なものだけど(III.の記事によると、たとえばモラヴィェツキは「メディアの80%が敵の手中にある、地方新聞は95%が外国コンツェルンのもの」と言っているようです)、裏付けとなる調査を著者は示していないし、また私の知るかぎり他の誰も示していません。ただしPiSに批判的なDWの記事も「とくに割合の高い印刷メディアでは75%が外国資本所有」としているところをみると(IV.)、少なくとも一部のメディアで外国資本所有率が高いのは事実のようです。しかしよしんば9割が外国資本というのが事実だったとして(TVPのプレゼンスや非外国資本の主要紙の存在を考えるとふつうに事実ではないと思いますが)、そのすべてがEU支持というのは考えにくく、明確な論拠が示されないかぎり著者の主張を信じることはできません。ただ V.の第7章によると、おそらく「外国メディア」への警戒心が強いと思われるPiS支持層のなかでさえ、「統合をストップして主権を回復すべき」という意見が支配的なわけでもないらしく、少なくとも反EUの「抵抗は困難」というのは著者の言うとおりなのかもしれない。
 こうした事実レベルの話と異なって、人の移動の自由化による「人種間の混交」(なんという世紀末-戦間期的響き……)や「民族国家の消滅」といった時代診断に異議を唱えるのは難しい。ただこうした記述は明確に右翼的な世界観に基づいた政治的主張に類するもので、そういう主張をすることはもちろん自由だけど、それがあたかも経験的に検証された事実や定説であるかのように書くのは問題があると思います。手に取った入門書に「アメリカとは資本主義=帝国主義的な膨張を存在理由とする非人間的な複合システムの謂であり……」みたいなことが書いてあったらどう思うか考えてみてください。あがる人もいるだろうけど、明石書店の本でそういうあがり方はしたくないでしょ……
 
I. https://commonslibrary.parliament.uk/how-much-legislation-comes-from-europe/
II. https://www.researchgate.net/publication/301588429
III. https://www.press.pl/tresc/53552
IV. https://www.dw.com/en/a-55534861
V. https://www.palgrave.com/gp/book/9783030546731

 

ユダヤ人/イスラエルについて
 以上EUについていろいろ書いてみたけど、この程度のことならこういう考えの人もいるか……で済むことで、無知をさらしてまでこんな反論を書くようなものではないと思います。以下が本題です。
 著者の主張の根幹にあるのは、「ユダヤ勢力」(著者はイスラエル政府や国内外のユダヤ系の人々の間に区別をつけていません。また何をもってユダヤ系とするのか、宗教なのか言語なのかエスニシティなのかということについても不明瞭)がさまざまな干渉手段を用いてポーランドに浸透し、そこから利益を得ようとしている、という想定です。著者はユダヤ人がいかにポーランド社会に馴染まないものであり、また「外部」から不当な干渉を行ってきたか、ということを多数の例を挙げて示そうとしていますが、これから見ていくようにその多くが事実の誤認ないし不適切な解釈に基づいています。
 具体的な反論は以下で行いますが、そもそも根本的な問題は、著者が「EU」や「ポーランド」、「ユダヤ」といった集合を均質かつ相互に排他的な集団として実体化しているところにあると感じています。EUの機構やヨーロッパ・ユダヤ人の歴史について少しでも勉強したことがあるならば、EUと各国内政治アクターや各国市民、ユダヤ人と各国主要民族の間には複雑で多様かつ不可分な絡み合いがあり、EUブリュッセルの超越的な官僚機構として(のみ)みなしたり、「ユダヤ人」や「ポーランド人」を均質な主体として語ることがいかに誤っているかはすぐにわかるはずです。そうした観念的な分離が分析の枠組みとして役立つこともあるかもだけど、より多く観察されるのは、「真正な国民」や「主権」といった中空のカテゴリを動員することで、自己を正統化し対立者を非正統化するという政治的言説戦略に使われるケースです。典型的な例と思われるのは、ジェンダーセクシュアリティに関わるテーマをめぐるポーランドナショナリストの言説です。もちろんこうしたことについて保守的な立場をとるのは個人の選択としては尊重されるべきだし、性的マイノリティの権利保護を推進するEUの政策を鬱陶しく思うのもその人の意見だけど、同時にそうした政策が多くのポーランド市民によって支持されていること、そもそもポーランドに暮らす性的マイノリティの人々は「EUからの移入品」でもなんでもなく「真正な」ポーランド人であり、同性愛者の政治運動すらEUからの移植ではない(80年代から始まっていた)ということを忘れるべきではありません。そういったことを鑑みれば、「ジェンダーイデオロギー」をファシズム共産主義etc.と同じく外来の侵略勢力とみなし、国民防衛の名の下にその排斥を主張するような態度(どの国でもよくある)は価値判断以前に事実のレベルで間違っていて、そこにおいては上記のような言説のメカニズムが働いているように思われます。そしてここで批判の対象としている文章も、とりわけユダヤ人に関しては同断に陥っていると言わざるをえないというのが私の考えです。

 では時系列順に著者の記述を見ていきます。まず戦間期までのポーランドユダヤ人の社会について。
・「彼らは教育、司法、税制など独自の制度をもち、その日常生活は自己の言語イディッシュだけで事が足りた。ポーランドの中にありながら、ポーランド社会とのつながりは薄く、自らを閉ざした民族宗教集団だった」(p. 40)
→ ある程度こうした描写が当てはまるのはシュテットルのケースだと思いますが、それとて「自らを閉ざした民族宗教集団」という単純なイメージとはかけ離れたものであり、ましてポーランドユダヤ人という内的に多様な集団の全体にそのイメージを敷衍することがいかに間違っているか、ということは、 E. ホフマン『シュテットル』を読めばわかると思います。戦間期ユダヤ系市民が置かれた状況全般については、『ポ歴知』第22・23章がきちんとした概観を提供しているので第4章ではなくこちらを読んでください。また VI.の第6章や西成彦ワルシャワで再会したニーチェの言葉」(『思想』2015年5月号)では、「自らの言語・宗教に閉じこもった集団」という像とは異なったユダヤ系の人々の文化活動が紹介されています。(これを書いていて、沼野充義先生が数年前の『みすず』読書アンケートで「ナチ占領下のルヴフを回想したレムのエッセイ」や、レムの小説とホロコーストの関係を論じた研究書『ホロコーストと星々Zagłada i Gwiazdy』を挙げていたのを思い出しました。前者は国書刊行会のレムコレ二期に収録されるとのことでしたが、後者も白水社さんとかが邦訳出してくれないかな〜とずっと思っています。もちろん明石書店でもいいよ!)
 事実レベルの反論を越えて「なぜユダヤ人とポーランド人を完全に分離した集団して記述したくなるのか」ということを考えるためには、VII.の論文が参考になると思います。「彼らはひとつの都市を共有してきた。ポーランド文化もユダヤ文化もここを中心としてきた。それが消滅してしまい、都市の残骸がふたつの伝説となったのだ。ひとつはポーランド人の。もうひとつはユダヤ人の」(『ブラッドランド』邦訳書下巻 p. 92)と T. スナイダーがワルシャワについて書いているように、ナチズムの戦争とホロコーストは戦前までの文化的環境を破壊し、その残骸の上に「再建」された戦後国家は半ば意図的な忘却によって記憶を「国民化」しました(これはユダヤ人だけでなく、たとえばドイツ人との関係についてもそう)。そうしてみると、共産主義者たちは戦後ポーランドの国境や政治体制にとどまらず、「国民の歴史」を語る言語についてもその雛形をつくったとも言うことができて、今日のポーランドでは右翼がそれをもっとも色濃く受け継いでいるというのは皮肉に感じられる。

VI. http://www.utp.or.jp/book/b306424.html
VII. https://www.jstage.jst.go.jp/article/aees/32/0/32_75/_article/-char/ja/

 

 戦後のポーランドユダヤイスラエルの関係について
・PZPRの中核にはユダヤ人が多く、このユダヤ人グループが「事実上ポーランドを牛耳っていた」(p. 41)。彼ら「ユダヤ共産主義者」(同)は党内での権威付けと同胞の擁護のためにイスラエルと協力したが、六日間戦争を機に共産党の対イスラエル評価は悪化し関係は終わった。
→ Żydokomuna を直訳して括弧なしで使う人初めて見たな……という揚げ足取りみたいなことはともかくとしても、ここでの著者の記述は明らかに問題があります。たしかに党のトップ層にユダヤ系が多かったことは事実ですが、彼らが「ユダヤ人として」国を動かしていたというのは事実ではなく、著者の記述はこの後者にあたります。当たり前のことですが人間のアイデンティティはさまざまな要素の複合体であり、「ポーランド人」「ユダヤ人」「共産主義者」という3つの側面があったとして、アプリオリに2番目(だけ)が優先されると考えるのは「ユダヤ的なもの」に対する完全な偏見です。ユダヤ人のなかでも「ユダヤ人」意識が先鋭化した例であるシオニストの場合ですら、ベギンのような最強硬派が主流化するまでには長い対立と葛藤があった、ということは鶴見太郎イスラエルの起源』に書かれている通りです。共産主義者の場合はなおさらで、彼らはスターリン主導の反ユダヤ主義的風潮のもとでかなり難しい立場に置かれ、しばしば自らのユダヤ人としての側面を否定するような行動を強いられました(『ブラッドランド』第11章では彼らとビエルトの萌友情話が描かれています)。そして結局のところうまく切り抜けた彼ら以上に打撃を受けたのが一般のユダヤ系(と見なされた)市民で、彼らは終戦直後のポグロムと1967-68年の「反シオニズム」キャンペーンという2つの波を中心にさまざまな迫害を受け、その多くが国を去りました。著者はこうした事情に触れることなく「ユダヤ共産主義者」による国家の操縦を口にしますが、これはまったくまったくまったくフェアなことではありません。
 また、戦後初期にイスラエルと共産圏が友好関係にあったのは事実ですが、それがユダヤ系党員の民族的利害に基づくものであったとするのは明らかな飛躍です。そして VIII.の研究によれば、他の社会主義国が反イスラエルの方向に舵を切った50年代初頭から、ポーランドにおいても「アメリカおよび西ドイツと連携した帝国主義国家」、「反共・反ポーランド国家」というイスラエルのイメージが党や治安機関の主導により継続的に広められていました。重要なのは、イスラエルに対するこうした否定的なイメージがユダヤ系市民への偏見と結び付けられ、1967-68年の反ユダヤ主義キャンペーンを頂点として、政敵の排除と国内情勢の掌握を狙う党指導部に利用されたことです。彼らは「ポーランドユダヤ人=侵略国家イスラエルの手先=ポーランドの敵」というイメージを国民の間に広め、さまざまな迫害を行なって多くのユダヤ系市民を国外移住に追い込みました。こうした歴史を振り返れば、ユダヤ人が共産主義ポーランドを支配していたかのような著者の記述がいかに無根拠なものであるか、また国内のユダヤ系市民を安易にイスラエルの利害の代表者として描くことがいかに危険なことであるか、よくわかるはずです。

VIII. https://www.ceeol.com/search/article-detail?id=799336

 

・PiSは「連帯」中核にいたユダヤ人グループの流れを汲む親イスラエル勢力であり、ポーランドポーランド人とユダヤ人の「共通の祖国」(ドゥダ)であるとする。これに基づいてPiS政権は、IPN法改正を撤回するなどイスラエル内政干渉に唯々諾諾と従い、さらには国内のユダヤ人団体に不当に便宜を図っている。
→ まず「「連帯」の中核にはユダヤ人がいて、PiSはその流れを引いている」というのがどの人脈を指してるのかよくわかりません。私の思いつくかぎりだと、ユダヤ系のミフニクや反ユダヤ主義に反対していたJ. クロン、J. リプスキらと、のちに PiSの大物になったカチンスキ兄弟(リプスキとは子供のころから知り合いだったらしい)や P. ナイムスキ、 A. マチェレヴィチが 「連帯」の前身組織のひとつKORで一緒に活動していたので、そのあたりが念頭に置かれているのかもしれません。ただ彼らはのちに完全に袂を別っている(萌!)ので、論拠とするには苦しい気がします。なのでよりありそうなのは、実際の人脈がどうこうというより、「連帯(とくに左派グループ)はユダヤ人とつながっている」という80-90年代初頭に醸成された中傷的・反ユダヤ主義的イメージに依拠している可能性です(このあたりの事情については IX.の文献に詳しいです)。いずれにせよ、合わせて議会の大半を占めるPiSとPOがどちらも連帯由来の政党である現在、連帯の「ユダヤ性」を云々することはユダヤ陰謀論的な見方にとって非常に効果的な戦略であると言うことができます。
 また、著者が「共通の祖国」計画=ポーランド国家へのイスラエルの浸透の表れとして引いている、ドゥダからポーランド首席ラビ M. シュードリヒへの「2017年9月13日付」の手紙についての記述にも問題があります。まず、調べのついたかぎりだと2017年にそのような手紙は送られていなくて、おそらく2015年の間違いです(ローシュハシャーナーを祝う内容ですが、日程的に2015年が妥当)。またこの手紙のなかに「(両民族)共通の祖国」という言葉は登場しません(別のところで言ってるかもだけど)。多分念頭に置かれているのは、「モーセの宗教とキリスト教に共通する伝統、そしてポーランド人とユダヤ人の深く絡みあった歴史は、私たちの文化とポーランドの寛容・開放性の歴史の重要な要素でありますし、またそうであり続けるでしょう。ポーランドユダヤ人の社会文化的・宗教的生活が復興を遂げていること、そして私たちが、両民族の幸福な将来を共に作り上げていることを喜ばしく思います」(X.)という部分だと思うけど、これや(同じ文脈で引かれている)2018年のモラヴィェツキ声明は一般的な儀礼文という解釈が自然で、「ユダヤ勢力」のポーランド政治への浸透の表れとみるのはさすがに無理がないか。

IX. https://www.jstor.org/stable/40970670
X. https://www.prezydent.pl/aktualnosci/wypowiedzi-prezydenta-rp/inne/art,16,zyczenia-dla-spolecznosci-zydowskiej-w-polsce.html

 

 次に、著者が「イスラエル内政干渉」としている事例について見ていきます(私の気力と調査能力の限界のため、著者の挙げるすべての事例をカバーできているわけではありません)。

・「2014年1月、イスラエル国会議員の約半数が、ポーランドクラクフに来訪、ポーランドの国会議員との間で合同の会合を開催してその[「共通の祖国」計画の]第一歩とした」(p. 30)
→ 同月にクネセト議員が来訪し、ポーランド側の議員と合同会合を開いたのは事実です。ただしそれは「国際ホロコースト記念日」の一環として行われたもので、 少数ですが他の欧米諸国の代表も参加しています(XI., XII.)。これを「イスラエルによるポーランド国家の主権侵食」と見なすかは個人の判断に依りますが、こういった前提を書き落とすのは誠実とは言えません。

XI. http://sejm.gov.pl/Sejm7.nsf/komunikat.xsp?documentId=1C9978C7F8A40EE9C1257C6300473551
XII. https://m.knesset.gov.il/en/News/PressReleases/Pages/Pr11094_pg.aspx

 

・2018年のIPN法改正は「国内では何ら反対の議論もおこらず[……]当然のこととして受け取られていた」(pp. 28-29)が、イスラエル(とアメリカ)の圧力をうけて廃止せざるをえなかった。
→ まず「国内では当然視されていた」というのが事実ではないです。採決の際には野党議員の多くが棄権しており(XIII.)、B. キルヒ やトゥスクといったPOの政治家は採決後に反対を表明しています(XIV., XV. ちなみにXVIにあるようにオバマが失言したときにトゥスク政権は厳しく謝罪を要求していて、「ポーランドの収容所」という表現に反対=法案に賛成というわけではない)。また採決後に行われた世論調査では、回答者の40%が法案に賛成、51%が反対しており(刑事罰という手段の有効性については45%が承認、40%が疑問視)、52%の人が「イスラエル等が表明した不安は理解できる」「こうした法案についてはユダヤ系の人々の不安に注意を払うべき」と回答しています(XVII.)。歴史家の意見もまちまちで、意外なところだと右派の論客として有名な A. ノヴァクが「法制定は逆効果であり、無知には研究と教育で対抗すべき」と語っています(XVIII.)。これらの意見は諸外国からの批判が殺到したのちに表されたものであり、文面としては「採決前」の状態のことを述べている著者の記述への厳密な反論にはならないかもしれません。しかし人々の法案に対する考えには外国からの反応を受けて変化する要素としない要素があり、また後者についても「不当な圧力だが撤退やむなし」「言われてみればたしかに」「不安だったがやはり」のそれぞれの間には大きな差があります。著者の主張を支持するには、国内で表明された法案撤回論をすべて「不当な圧力だが」式のものと解釈する必要がありますが、これはどうみても現実的ではありません。

XIII. https://www.cultures-of-history.uni-jena.de/politics/poland/the-polish-holocaust-law-revisited-the-devastating-effects-of-prejudice-mongering/
XIV. https://www.faz.net/aktuell/politik/umstrittenes-holocaust-gesetz-in-polen-15427534.html
XV. https://twitter.com/donaldtusk/status/958993407602495489
XVI. https://thehill.com/policy/international/230419-obama-letter-says-he-regrets-polish-death-camp-gaffe
XVII. https://dzieje.pl/aktualnosci/cbos-40-proc-polakow-jest-za-nowela-ustawy-o-ipn-51-proc-uwaza-ze-dezinformacji-nalezy
XVIII. https://www.polin.pl/en/news/2019/06/10/open-letter-mr-mateusz-morawiecki-prime-minister-republic-poland

 次に、著者は「イスラエルの反応」として、

・「しかし採択の翌日2018年1月27日、駐ポーランドイスラエル大使は、ポーランド人こそがユダヤ人虐殺を行なったとして二項目追加に反対を表明」(p. 29)
・「イスラエルは翌1月27日、この追加条項に反対。被害者はユダヤ人であって、ポーランド人ではない。「死の収容所」という表現を禁止することによってポーランドは、ユダヤ殺害を行なった責任をまぬかれようとしている。ポーランド人は直接殺害に関与したし、それを傍観していたことに対しても責任を負わなければならない、と非難した」(p. 43)

という内容を紹介し、これを受けて政府は法案を再修正した、と述べていますが、これについても注意が必要です。まず「27日のイスラエル大使の反対」というのは、同日のアウシュヴィッツ解放記念式典における A. アザリ大使の演説を指していると思われますが、引用として不正確です。アウシュヴィッツ博物館のサイトでチェックできますが(XIX.)、この演説の内容は「誰が収容所を建てたのか、ポーランド人でないことはイスラエルも承知している。しかしこの法案はホロコーストについて真実を語ることを禁じるものではないかという不安と怒りが市民の間に広まっており、イスラエル政府として拒否する。良き友人として、ホロコーストについて同じ記憶を共有できるような道を見つけられればと思う」というようなものです。他国の法案を「拒否する(odrzuca)」と言い切ったのはもちろんあまり穏やかなことではないわけですが、その他の部分においては概ね抑制的であり、少なくとも「ポーランド人が主犯」とはひとことも言っていません。念のため大使の同日のFB投稿(XX.)や別日の発言(XXI.)、ネタニヤフのステイトメント(XXII.)もチェックしましたが、「ポーランド人が虐殺の主犯」「傍観していたことにも責任」といった表現は見られません。憶測になってしまうのですが、これらの文章や6月に手打ちとして発表された両国首相共同声明の内容から察するに、「『一定数のポーランド人がユダヤ人迫害に加担した』というラインをこれまで通り遵守させる」というのがイスラエルの基本路線であり、法案はそこからの後退につながりかねないと判断したため反対した、というところではないでしょうか。XVII.にもあるように、今日のポーランド社会ではそのレベルのことであれば共通理解となっており、そこから「イスラエルの不安もわかる」と答えた人がわりと多かったというのも理解できると思います(政府公式レベルで「ポーランド人こそが虐殺を行なった」という発言があればもっと反発が大きくなっていたはず)。結局のところ、6月の共同声明のなかには「『ポーランドの収容所』という表現は許容できない」、「多くのポーランド人がユダヤ人の命を救った」、「反ユダヤ主義とともに反ポーランド主義も拒絶する」といった内容の文言が並んでおり(XXIII.)、もともと無理筋の法案(というのは私の判断ですが)で無用なトラブルを招来した結果としてはポーランド政府は最大級の戦果を手にしたと言えるのではないでしょうか。
 ただもちろん、「〇〇はこう言っているぞ」という例はいくらでもあると思うし、それらの発言の重要性を否定するつもりもありません(XXIV.とか)。なのでここで言いたいのは、ポーランド人に架空の罪をなすりつけるイスラエルの論者などいないとか、そんなのは瑣末なことだとかいうことではなく、そうした極端な例をイスラエルあるいは「ユダヤ」全体の意見であるかのように言うのは間違っているということです。2006年にアウシュヴィッツ世界遺産登録名の改称(「ドイツの収容所」ということをはっきりさせる)をポーランド政府が申請した際にもそうだったように(XXV.)、こうした話題についてはユダヤ系コミュニティのなかでもつねに意見の相違があります。2018年の件では、たとえば上述のシュードリヒは、2月のインタビュー(XXVI.)で「法案の理念ではなく不明瞭な文面が問題」「イスラエルポーランドの双方の論者に問題がある」とし、ユダヤポーランド市民としてバランスをとろうと努めているように見えます。また彼は3月には、ポーランドカトリック司教会議と足並みを揃えてポーランド系とユダヤ系市民双方の行き過ぎを戒め、相互の尊重と対話を呼びかけています(XXVII., XXVIII.)。本書ではドゥダからシュードリヒへの手紙に加え、両者が官邸でハヌキアに火を灯している写真が引用され、「在ポーランドユダヤ宗教指導者=ポーランドに浸透するイスラエル権力の代表」という印象が演出されていますが、それはここで挙げたような発言を見れば(このような発言を見ずともと言いたいところですが)間違いであることがわかります。ちなみにドゥダの手紙と同じく、上述の司教会議側の声明でも「共通の宗教的伝統による結合」が語られており、著者の図式に従えばこれはカトリック教会すら「ユダヤ勢力」に屈服していることの徴となりますが、そう主張する勇気のある人がどれほどいるでしょうか……(著者にはあるかもしれない)

XIX. http://auschwitz.org/muzeum/aktualnosci/73-rocznica-wyzwolenia-niemieckiego-nazistowskiego-obozu-auschwitz,1962.html
XX. https://www.facebook.com/IsraelinPoland/posts/2714315658608536
XXI. https://www.rp.pl/Konflikt-Polska-Izrael/304199859-Ambasador-Izraela-Anna-Azari-Izrael-czeka-na-wyrok-ws-ustawy-o-IPN.html
XXII.https://mfa.gov.il/MFA/PressRoom/2018/Pages/PM-Netanyahus-remarks-at-the-start-of-the-Cabinet-meeting-28-January-2018.aspx
XXIII. https://www.gov.pl/web/premier/joint-declaration-of-prime-ministers-of-the-state-of-israel-and-the-republic-of-poland
XXIV. https://amp.theguardian.com/world/2019/feb/18/polish-israel-visit-holocaust?CMP=share_btn_tw&__twitter_impression=true
XXV. https://www.juedische-allgemeine.de/allgemein/dein-name-sei-deutsch/
XXVI. https://wydarzenia.interia.pl/polska/news-rabin-schudrich-ustawa-o-ipn-to-nie-jest-falszowanie-histori,nId,2518505
XXVII. https://episkopat.pl/przewodniczacy-episkopatu-polakow-i-zydow-wiecej-laczy-niz-dzieli/
XXVIII. https://episkopat.pl/rabin-schudrich-doceniamy-komunikat-episkopatu-ws-kontynuowania-dialogu/

 

・2018年5月に発行されたアメリカのJUST法は、補償や賠償という名目でアメリカとイスラエルユダヤ人がポーランドの財産を搾りとるための法律。これはユダヤ人によるポーランドの土地の掌握、「共通の祖国」化の第一段階となりうる。これを目的として、1月のIPN法案への反対→5月のJUST法成立→6月のIPN法案修正というかたちで、「ポーランドホロコーストの責任国」という国際世論を喚起しポーランドに補償を受け入れさせる計略が展開された。

→ JUST法については、駐ポーランドアメリカ大使館が「よくある誤解」についてまとめたページがあります(XXIX.)。これを見れば、著者のJUST法理解がだいたい「よくある誤解」に基づいていることがわかります。ひとことで言うと、JUST法は2009年のテレジーン宣言に基づいて各国の(ナチ占領下で没収され戦後国家に引き継がれた)財産返還・補償プロセスの進捗をウォッチすることを定めた法律であり、ポーランドから金をむしりとるすごいパワーのある法律ではありません(ちなみに著者は「補償額はユダヤ側の算定で3000億ドル」としていますが、これはポーランド極右グループの決まり文句です。XXX., XXXI. 参照)。たしかに、とくに遅れの目立っているポーランドに圧力をかける狙いがあるのは事実ですが、実効力はいまのところほぼありません。アメリカのJUST法発効とイスラエルのIPN法改正反対が連動したものだったという著者の主張については、上で紹介したポーランドイスラエル首相共同声明の内容ひとつとってみても、事実無根であることがわかります。
 また、著者の最も根本的な間違いとして、サバイバーや共同体への財産の返還が即イスラエル国家(や漠然とした「ユダヤ」)の利益になるという想定があり、ここにも「ユダヤ」を(そして「ポーランド」を)均質な主体として想像するこの文章の傾向が表れています。ポーランドにおいても、ユダヤ教を含む各宗教共同体に対しては財産返還がすでに行われていますが、それは個々の共同体に対して行われたのであり、イスラエル国家や抽象的な「ユダヤ勢力」の手にポーランドの財産が渡ったのではありません(この点において、実際に国際ユダヤ人組織が主要な役割を担い、イスラエル市民が主要な受益者となった終戦直後のドイツにおける相続人不在財産返還のケースとは事情が異なります。武井彩佳『戦後ドイツのユダヤ人』第2章参照)。仮にJUST法が効力を発揮してより包括的な返還・補償制度が整備された場合、XXXII.の国際ガイドラインに沿ったものになると思われますが、著者が示唆するような「ポーランドの土地、建物、森林、地下資源、金塊等」(p. 43)の大規模な収奪とイスラエル国家や在米ユダヤ人組織へのその横流しを可能にするような条文はどこにもありません。実際のところ、この問題においてより法整備の進んでいるチェコの事例では、法律で特定の種類の土地を返還の対象外と定めるなど、国家の側である程度の柔軟性をもった運用が行われています(XXXIII.)。

XXIX. https://pl.usembassy.gov/just_eng/
XXX. https://www.dw.com/en/a-52156875
XXXI. https://jp.reuters.com/article/us-poland-israel/polish-far-right-supporters-protest-against-restitution-of-jewish-property-idUSKCN1SH0HA
XXXII. https://www.shoahlegacy.org/property-issues
XXXIII. https://digitalcommons.lmu.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1777&context=ilr

 

・「例えば、イスラエル側の要求によって、アウシュヴィッツのような施設には、ポーランド国旗の掲揚、ユダヤ教徒が嫌悪する十字架の設置は認められていない。さらにアウシュヴィッツに隣接するカトリック修道院も撤去させられた。このようにポーランドにありながら、ポーランドの主権が及ばない地域が設定された」(p. 30)
→ この問題は、実際の経緯としては以下のようになっています。

79年:教皇ヨハネパウロ2世のアウシュヴィッツ訪問、歴史的演説(説教)が行われる。
84年:アウシュヴィッツに隣接する建物(元ツィクロンB貯蔵庫)にカルメル修道会設置、ユダヤ人の抗議が起こる。
87年:教会とユダヤ共同体双方の代表者の間で、89年までの修道会の撤退が取り決められる。
88年:取り決めへの抵抗として、修道女たちにより巨大な十字架が建てられる(79年の教皇訪問にちなんだものとされ、「教皇の十字架」と呼ばれる)。
93年:修道会撤退、「教皇の十字架」は残る。ユダヤ人団体は引き続き十字架の撤去を求める。
98年:ポーランド外務省高官が「教皇の十字架」撤去の可能性を示唆。主に保守派の間で反発が広まり、一部の強硬派が計300本以上の十字架を「教皇の十字架」周辺に建てるなどのアジテーションを行う(「十字架闘争」)。これに対しイスラエル政府等が懸念を表明し、国内外で論争に発展。
99年:事態収集のため政府および教皇が介入。法律(後述)が制定され、「闘争」で建てられた十字架は撤去される。ただし「教皇の十字架」は残る。

 この問題については、『アウシュヴィッツの十字架たち』という詳細な研究書が出版されています(XXXIV.)。これを参考にしながら(といっても序論と結論しか読めていないのですが……)著者の記述のどこに問題があるかを考えたいと思います。
 まず、アウシュヴィッツを含む6つの旧絶滅収容所およびシュトゥットホーフ、グロース=ローゼンの2つの旧強制収容所に関しては、99年の法律によって、敷地および周囲の土地(最大100㎡)における様々な活動(集会、商業活動、建築等)に実際に制限が課されています(XXXV.)。しかし設置が禁止されているのは「ユダヤ教徒が嫌悪する十字架」だけでなく、記念施設の維持に必要ではないすべての建築物です。また、95年にあるスカウト・グループがビルケナウ敷地内にダヴィデの星と十字架を建てた際には、ユダヤ系知識人の重鎮であるE. ヴィーゼルがそれら両方の(十字架のみの、ではなく)撤去を要求しています。旧絶滅収容所のそばに十字架を建てることがなぜ多くの人々の懸念を呼び起こすのか、ということを考えるとき、単純な「十字架に対する(宗教的)嫌悪感」というレイヤーだけで議論が済むものではないということはこれらの例からもわかると思います。
 私がこの問題の背景として重要と感じるのは、そもそも第二次大戦後のヨーロッパにおいてホロコーストがどのように語られてきたか、という歴史的文脈です。戦後のヨーロッパでは、国内の対立や対独協力、無抵抗の虐殺といった占領時の陰鬱な出来事については沈黙が選ばれ、侵略者に対する英雄的なレジスタンス闘争に焦点を当てた「受難と抵抗」あるいは「英雄と殉教者」という枠組みで直近の過去を理解することが好まれました。社会主義政権とともに高度に均質な国民国家が樹立されたポーランドでは、この枠組みは「ファシストの侵略に対する反ファシズム闘争」および/あるいは「ドイツの侵略に対するポーランドの国民的抵抗」というかたちをとって現れました。そこにおける受難/抵抗の英雄化された主体はあくまで「反ファシスト」あるいは「ポーランド国民」であり、ユダヤ人が被った運命の特異性を語ることは「反ファシズムの普遍性を無視する」もの、あるいは「ポーランド国民の苦難の特異性を貶める」ものとして抑圧の対象となりました。アウシュヴィッツ記念館の展示や記念碑にもそれは反映され、「人種的理由」によって殺害されたユダヤ人が当地における犠牲者の大半を占めていたことが70年代中頃まで曖昧にされていました。他の諸国と同じく、ポーランドにおいても70年代以降こうした歴史観の修正がゆっくりと進んでいますが、「ポーランド国民の特別な受難/英雄性」を強調しそこにユダヤ人の経験を組みこんでしまう言説も依然として存在しているのが現状です(もちろん、ポーランド人が他国民と比べても大きな犠牲を払ってナチ・ドイツと戦い、ユダヤ系の同胞を救出したのは事実なのですが……)。それはたとえば、「十字架闘争」でアウシュヴィッツに張られた垂れ幕(「ここで1940-1945年にドイツ人がポーランド人を殺害した」)や、『ポ歴知』第27章で紹介されている2015年の世論調査結果(「アウシュヴィッツで殺されたのはポーランド人」という回答が45%)にその表れを見ることができます。またユダヤ人が「完全なる絶滅」に直面したと語り、ユダヤ人の特別な苦難を認めたことで名高い79年の教皇演説のなかにも、ポーランド国民の苦難をメシアニズム的に特別視するナショナリスティックな傾向が垣間見えます(詳しくは加藤久子『教皇ヨハネ・パウロ二世のことば』)。こうした事情を考慮すれば、ポーランドナショナリズムとカトリシズムの間に深い関係があるなかで、アウシュヴィッツに十字架を建てることがどのような意味をもちうるか、それがどのような理由でユダヤ人にとって脅威と感じられるか、ということの一端が理解できるのではないかと思います。(だから修道会が撤去されたことやイスラエルが外圧をかけてきたことも是認すべきだ、ということではもちろんありません。ですが、その是非を考えるための前提知識としてこうしたことを踏まえることは必要だと思います)
 さらに言えば、この「アウシュヴィッツの十字架」をめぐる議論を「ポーランド国民 vs. ユダヤ人」という構図で理解すること自体に問題があります。この論争は、ポーランドのナショナル・アイデンティティとカトリシズムの関わりや、体制転換後の国家における宗教の役割などをめぐって、ポーランド国民内部、カトリック教会内部で行われた論争でもありました。そうした背景を無視し、「ポーランドの主権」とそれを侵食するユダヤ人という図式でこの問題を語るのは適切とは言えません。XXXV.では、論争における保守派の議論が以下のようにまとめられています。

「[……][十字架撤去の噂に対する]反応は素早かった。多くの政治家、そしてポーランドカトリック教会のトップであるユゼフ・グレンプ枢機卿までもが、驚愕や不信の念、そして怒りを表明した。しかし反応として表れたこれらの感情は、「ユダヤ人や世俗主義者たち」に反対する議論が口にされるようになるとすぐに、道徳的なショックと憤激に姿を変えた。その議論によれば、ユダヤ人は国民国家の主権を侵害しポーランド国民の記憶を傷つけたのであり、一方世俗主義者たちは十字架の擁護を怠ったことで、異邦人に屈服しポーランド・ネーションの根本的特徴を放棄しようとしていたのだった。両グループを悪魔化し、差し迫った脅威を絶え間なく描き出すことによって、ユダヤ人と「粗悪なポーランド人(bad Poles)」に対する嫌悪感や憎悪に類する感情までもがさらに煽動され、増幅されることになった」(p. 213)

そして私がここで批判している文章についても、同様のことが指摘できると思います。他の場所で書かれたものを読むかぎりでは、著者はありがちなロマン主義ナショナリズムポーランドのものも日本のものも)とは距離をとっているように見えるのですが。

XXXIV. https://dziennikustaw.gov.pl/DU/1999/s/41/412
XXXV. http://books.google.com/books?vid=ISBN0226993051

 

・2018年夏、「ユダヤ側」がポーランドのある小学校の敷地に戦前のユダヤ教指導者の墓を発見したと発表し、一体を聖域とすることを要求。これはポーランドの教育権への介入である。
→ この一件(XXXVI.)のことかと思われます。記事にもあるように、この当事者となっているのはモジッツ派という一集団であり、「ユダヤ側」などという大層なものではありません。2019年の記事(XXXVII.)によれば学校のグラウンドがもともとユダヤ墓地だったのは事実らしく(ナチが破壊・接収し戦後に学校として再利用)、上述のシュードリヒの見解としては「市当局との協議のうえ穏当な解決を望む」とのことでした。こうした動きには賛否あるでしょうが、少なくともイスラエル政府やポーランドユダヤ人が一体となって強硬な主張を行なっているかのような著者の書き方には問題があります。あと潜在的に侵害されるとしたら「ポーランドの教育権」というより(公教育の内容に介入されているわけではないので)土地所有者の財産権とかでは? という気もしますが……

XXXVI. https://www.timesofisrael.com/hasidic-pilgrims-say-rabbis-grave-buried-under-polish-school/
XXXVII. https://radio.lublin.pl/2018/07/kazimierz-dolny-boisko-na-miejscu-zydowskiego-cmentarza/

 

・毎年ユダヤの催事が公的機関で行われ、ユダヤ墓所維持改修のために国費が支出されている。これは宗教団体に対する国家の中立義務の違反であり、「共通の祖国」化計画の現れである。
→ 前者については、反ユダヤ主義的な極右との近さを指摘されるPiSが「ユダヤ共同体にもちゃんと気を遣っている」と示すためのパフォーマンス以上のものではない気がします……。後者もXXXVIII.で確認できるように事実ですが、同じようなことは他国でも行われおり(適当な国名を入れてググってみてください)、特別「ユダヤ勢力」の浸透を示すものとは思えません(「ホロコーストの想起の規範化はユダヤヘゲモニー戦略」みたいな話をするなら別ですが)。もちろん国家と教会の分離という観点からこうした動きを批判することは可能ですが、その場合カトリック教会と国家の近さに触れないのはユダヤ教コミュニティに対して不公平です(カトリック教会のケースについてはXXXIX.第9章を参照ください。)。

XXXVIII. https://www.ecoi.net/en/document/1436886.html
XXXIX. http://hup.gr.jp/modules/zox/index.php?main_page=product_book_info&products_id=988

 

・「こうした状況[「共通の祖国」化の進展]が進めば[……]ユダヤ主権者は財力と知力を駆使して社会の中枢部を占め、残余をポーランド人主権者が、という可能性もある」(p. 31)
→ 「経済を支配するユダヤ人」という反ユダヤ主義的な戯画の象徴として「お前たちは路上で暮らせ、私たちは家で暮らす」というフレーズが戦間期に広められたそうですが(XXXX. p. 310)、それを思い出しました。無根拠なクリシェです。「ユデオポロニア」も何もかもすべて。

XXXX. https://books.google.co.jp/books?vid=ISBN3492115381

 

・「神に選ばれた民族を自称するユダヤ側はポーランドの主権に服属しないし、ポーランド人の社会になじむかどうか疑わしい」(p. 31)
・「「共通」とはいうものの、神に選ばれた民族と自ら名乗るユダヤ人は、ユダヤ以外の民族を自己と同等なものとは認めない。[……]ユダヤ人の目から見ると、全人類は国籍に関係なく二種類に分けられる。それはユダヤおよびゴイ(goj)の二種である」(p. 45)
→ ここで執拗に語られる「ユダヤ側」「ユダヤ人」とは誰のことなのでしょうか。なぜ「ポーランド人の社会」の輪郭を著者の判断で勝手に決められると思えるのでしょうか。不特定多数の人々を曖昧なカテゴリで一括し、そこに否定的な属性を貼りつけるのは差別以外の何物でもありません。ここでの著者の記述は、ユダヤ系市民の社会からの排斥を暗に正当化するものであり、本書のなかで最も問題のある箇所だと考えます。

 

 ここからは私の感想文なので思いつきをそのまま書くんだけど、上述したようにこの著者の叙述の肝は「ポーランド国家(ネーション)」を均質な共同体としているところにあると思う。そうした想定に基づけば、主権=主体として決定を行う権利というのは「(均質な)主体として(単一の)決定を行う権利」となるんだけど、これは「絶対君主による単一意志決定権」というかなり古典的な主権理解を連想させる(気がする。大昔に読んだコゼレック『批判と危機』を思い出しながら書いています)。そこまでくれば、絶対主義国家没落の原因をユダヤ人による蚕食に帰した C. シュミットの議論まであと一歩というわけで、著者が展開しているような主張は古めかしくそしてありふれた議論の現代的リライトに過ぎないと言うこともできる。
 ここで問題になるのは、なぜ/どのようにそんな古典的な反自由主義言説がリバイバルしているかということなんだけど、ここで考えたいのは、共同体が、というよりその想像上の均質性や「本質」が(あるいは主権でも伝統でもアーベントラントの精髄でもなんでもいいのですが、ともかくそれが)存亡の危機に瀕している、という意識の高まりとの関係についてです。そうした意識はどんなコミュニティでも動員可能なものだけど、ポーランドを含め東中欧の国々では、「異民族支配の歴史」や「全体主義の経験」という物語が「民族の危機」言説を強力に下支えしている。さてそうして「均質性が脅かされている」となったとき、まず脅威として名指しされるのは明確に「否定的な差異」と名指しうる存在であって、過去のポーランドにおいてそれはナチ・ドイツとソ連という最も暴力的なかたちで現実のものとなった。しかしソ連の支配から脱却したいま、「国体が崩壊の危機にある」という不安は感じられるのに、それを作り出しているはずの差異が目に見えない、あるいは自分はそれを「見つけ出した」としても、他の同胞にはそれが見えていないという危機感があって、ここから「差異を見えるものにすること」、つまりイスラエルを「明確な差異」と指定し、国内の「ユダヤ勢力」やEUの影響力については「見えていない差異」として名指しすることで「明確な差異」に転換させるという戦略が導き出される。「ポーランド名を名乗ってソ連から送り込まれたユダヤ共産主義者もいた」(p. 41)、「イスラエル国家が望んでいるのは[……]もっと濃密な浸透」(p. 42, 「濃密な浸透」って暗めのR-18創作同人誌のタイトル感ある……)、「[イスラエル=「ユダヤ側」は]ポーランドに安全を求め、その内部に浸透し、自らの姿は隠しながら、ポーランドと一体化した国家をつくろうとしているのであろう」(p. 45)などと繰り返し著者が書くとき、そこで行われているのは、「この生、この文化が脅かされている」という不安を特定の他者にプロットし「不可視であるがゆえに危険な差異」として可視化する操作であり、しかもそれがつねに不完全なものに終わるために(ふつうユダヤ系の人を外見から見分けることはできないし、親欧派・親イスラエル派という「内通者」もそう)ますます不安が煽られ……というメカニズムが働いている。ポーランドというよりヨーロッパの(新)右翼潮流全般に言えることだと思うけど、彼らは「一元的世界への反対」「差異への権利」などと口にしてはいても、共同体内部に関してはむしろその均質性の再生産に取り憑かれていて、そのために「差異」を(肯定的あるいは否定的に)外部化し続けることを強いられているとも言える。そしてそのような場所で「主権」という言葉が持ちだされるのは、「均質な共同体」というイメージを時間的に遡行させて国家というものの出発点に投影し、問いただされることのない当然の前提として正統化するため……とこじつけられなくもないかな? と思いました。主権と可視性/不可視性の関わりについては思想史的にもっとちゃんと論じた方がいいと思うけど、私にはその能力がないのでやめておきます。


 これで終わりです。上で書き落としてしまいましたが、現代ポーランドの政治動向については宮崎悠先生などいろいろな方がレポートしているのでぜひ読んでみてください。あと白水社さんはポーランド語辞典を早急に復刊してください。何卒……